文化
登録文化財

汲「せや星野薬局は300年続いている商家です。文化2年の建築で土蔵瓦葺2階建てと、切り妻いり形式の2棟建てです。
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明治の中期中等教育の機関が殆どなかったころ鶴岡銀蔵・白井有常・唐鎌忠三郎等が奔走し今泉に開校した。その後合併、移転、改称して現在の県立長生高等学校となる。 6図







県立茂原高等学校の前身である静和女学校は明治36年、岩川出身の白井勇次郎が創立した。当時非常に立ち遅れている女子教育の必要性を感じ、設立趣意書を作成し広く有識者に賛同を求めた。 2図







慶応4年7月2日、新政府から安房上総知県事に任命された柴山文平は、八幡宿に進駐した後8月中旬には長南宿に移り淨徳寺を知県事役所と定めた。その後5ヶ月間の短い間であったが、新政府の布達はすべてこの長南役所から県下に発せられた。 16図下









長南の町並近くの小高い丘に位置していた長南城は康生2年甲斐武田氏の一族である武田信長により修築され落城までの140年間長南武田氏累世の居城として有名である。しかしその規模、構造などについては不明である。
太鼓森は、長南城西隅にあり、その東方には妙見神社がある。むかしここに物見の櫓があり、出陣や家臣への合図に太鼓を打ち鳴らしたと言い伝えられている。
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寛文10年10月24日の刻銘があり、町内の地蔵尊の中では最も古く舟形光背を含めて高さ120cm幅60cmの大型の地藏尊である。
俗に泥地蔵と呼ばれ、子育て地蔵として古くから近郷の信仰を集めている。
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 公家門
 今関家の門は古来から「公家門」と呼ばれている。この地方に多くある長屋門とは異なり棟門の両側に守衛の詰め所を置き、更に外側に潜戸を取り付けた様式である。
この門の建造年月は不詳であり、棟札は風化されて判読できない。
屋号を棒仁と呼び近郷に素封家として知られ、奈良一乗院宮家から許されて建造したものと言われている。

 井上藩仮本営跡
 遠州浜松の城主であった井上河内正直が、市原・山辺・埴生・長柄地方206か村、6万2千石で転封となり、明治2年2月から鶴舞に移る翌3年4月までの1年2ヶ月の間今関家が仮本営とされた。
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渡辺辰五郎は弘化元年に生まれ安政6年江戸に出て和裁仕立て屋に住み込み立派な仕立職となった。慶応4年23歳で故郷に帰り、渡辺家の再興をはかり遠近の女子を集め裁縫を教えた。
後にいくつかの教員、教師を勤め、同志と共に共立女子職業学校創立、その後、東京裁縫女学校に専務、明治40年5月26日没。享年62歳
一代にして、現在の名門大学の創設した長南町の誇るべき教育者である。
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